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ムアンマル・ムハンマド・アル=カッザーフィー(معمر
محمد
القذافي Mu'anmmar Muhammad
al-Qadhdhāfī, 男性, 1942年
- )は、リビアの軍人、政治家。日本では「カダフィ大佐(Colonel
Qadhafi)」という呼び名でよく知られている。なお、カッザーフィの英語表記はリビア政府報道においても一定していないが、リビア方言に最も近いのはGaddafi。1969年の革命以来、リビアの実質的な元首を務める。
プロフィール
生い立ち
カッザーフィーはリビアの砂漠地帯に住むベドウィン(遊牧アラブ)カッザーファ族の子に生まれた。1956年から1961年まで、リビア南部のフェッザーン地方で伝統的な宗教教育を受けるが、エジプトのナーセル大統領の影響を受け、アラブの統一による西洋への対抗を志す。
軍人
1963年にベンガジの陸軍士官学校に進んだ。在学中から仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となる。
クーデター
1969年9月1日、カッザーフィーの同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを敢行。病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功。11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィを議長とする革命評議会が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィが革命評議会議長と公表されたのは翌年)。1974年には政治理論の研究に専念するためとして革命評議会議長職をナンバー2のジャルード少佐に委譲。1979年からは一切の公職を退いたが、「革命指導者」として現在に至るまで実質上の元首としてリビアを指導している。「大佐」というのはニックネームであり、カッザーフィー自身の軍隊での最終階級は大尉。敬愛するナーセル大統領が大佐を自称していたのでそれに倣ったものである。勿論リビアにも大佐以上の将官は存在する。
家族
2003年、三男のサアディー・カッザーフィーがリビアの旧宗主国でもあるイタリアのサッカーチーム、ペルージャに入団したことは大きな話題となった。次男のセイフ・アルイスラム・カッザーフィーはカダフィ開発基金(旧:国際慈善基金)総裁を務め、2005年4月には愛知万博視察のために来日している。また、愛知万博においてリビアをフレンドシップ国として交流していた田原市も訪れ、
渡辺崋山の絵を寄贈されている。
カッザーフィーの思想──イスラム社会主義と汎アラブ主義
1973年からは文化革命を始め、イスラームとアラブ民族主義と社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(欧米では「イスラム社会主義」と言われる)という国家体制を宣言した。現在のリビアの正式国号にも大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と、ジャマーヒリーヤという言葉がある。1976年には自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。
同時にカッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者でもある。1972年にはエジプトのサーダート、シリアのアサドと組んで汎アラブ主義三ヶ国によるアラブ共和国連邦を結成したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。
対外政策の舵取り
カッザーフィーはパレスチナ解放機構(PLO)の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持しているほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体(CEN-SAD)を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としている。
1970年代と1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを彼は援助していたと言われている。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアはアメリカからはテロ支援国家、ならずもの国家として名指しの批判を受けつづけている。
カッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されている。さらにテロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1986年にアメリカは居宅を狙って空爆する強硬手段を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは危うく難を逃れたが、この空爆により幼い末の娘を失った。
もっとも、近年は態度を変更しつつあり、1999年にはパンナム機爆破事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じ、2003年8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際して、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者のひとりであり、世界的なテロ批判の風潮をリビア国内のイスラム過激派の封じ込めに利用した。
更にはイラク戦争後にアメリカへ新たな標的にされるのを恐れてか、2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどはこれらの対応を評価し今まで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外し、2006年度内には国交を復活させる予定である。
こうした近年の態度の変化にはカッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつあるのではと指摘する意見がある。事実、2000年にトーゴで開かれたアフリカ統一機構(OAU)首脳会議に長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、2002年のアフリカ統一機構からアフリカ連合への改組では彼が主導的な役割を果たしている。
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