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FRANCISCO FRANCO


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フランシスコ・フランコ・バハモンデFrancisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco y Bahamonde Salgado Pardo, 1892124 - 19751120日)は、スペインの政治家、独裁者、軍人。

プロフィール

軍人フランコ

フランコは、スペイン北西部ガリシア地方の軍人の子に生まれた。トレドの陸軍士官学校を卒業して18歳で少尉となった。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で、以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱の鎮圧に当たった。彼は、現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。

1931年、スペインではボルボーン(ブルボン)王朝が倒されて共和制が敷かれた。フランコは、共和政府からラコルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。193410月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネストを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により、翌年、陸軍参謀総長に任命された。

スペイン内乱

19362月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、フランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。同年7月、スペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。人民戦線政府の社会改革や教会財産没収などの政策に不安を感じていた地主・資本家・カトリック教会などの保守勢力がフランコを支援したため、反乱は全土を巻き込む内乱(スペイン内乱)へと発展した。

フランコは、反乱軍(国民戦線軍と称した)の総司令官兼国家元首に就任し、ナチス・ドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦い、19392月、マドリードを陥落させて人民戦線政府を崩壊へ追いやった。フランコは直ちに独伊防共協定に参加した。そして、正式にスペイン政府の総統に就任した。

3年間にわたる激しい内乱で国土は荒廃した上に、フランコは内乱で人民戦線を支持した労働者・農民を厳しく弾圧し、人民戦線派狩りを行って数十万人を殺害したといわれる。そのため、国内の生産の減退は著しかった。

中立を維持

第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言したが、アントニオ・サラザール率いる隣国のポルトガルと同様、ナチス・ドイツの優勢を見て枢軸国側に、連合国が優勢になると再び中立に戻るという動揺を繰り返した。この外交によってスペインは第二次世界大戦の戦禍を免れた。

独裁者フランコ

フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツ・イタリアの支援を受け、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。そのため、大戦終結後に成立した国際連合は、194612月の国連総会で、ファシズム・スペインを国連から排除する決議を採択した。しかし、戦後の東西対立・冷戦の激化により、西側諸国は反共産主義という点でファシズム・スペインとの関係の修復を模索し始めた。

アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領とともに

 

アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領とともに

19539月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めたり(1958年)、195912月にはアメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会見、序盤はぎこちなかったものの、最終的には二人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。その後、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えたり(1966年)して、社会不安の緩和に努めた。

後継者指名

70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。フランコは、前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを1969年に後継者に指名し、長い闘病生活の後、1975年に83歳で没した。

フランコ没後のスペイン

ヨーロッパにおいてドイツ・イタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツ・イタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。1975年のフランコの死で、スペインにはボルボーン王朝が復活したが、フアン・カルロス1世は即位を機に、急速に西欧型の議会制民主主義国家への転換を図り、1977年に総選挙を実施し、1978年、スペインは議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。

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