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FIDEL CASTRO


By: wikipedia: 

 
Fidel Castro

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フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスFidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, 1926年8月13日 - )は、キューバの国家元首、政治家、革命家、弁護士、社会主義者、独裁者。

アメリカの事実上の傀儡であったフルヘンシオ・バティスタ政権を倒し、キューバを社会主義国家に変えた。1965年以来キューバ共産党第1書記。国家における役職はキューバ共和国国家評議会議長。

2006年7月31日、声明を出し、「腸に急性の問題が発生、出血が続いてる」ため外科手術を受けたと発表した。

生い立ち

カストロはスペイン移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレジオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学し法律を学ぶ。大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。在学中の1948年にはアメリカのメジャーリーグ選抜に投手として対戦、3安打無得点に抑える。1950年に大学を卒業した。

卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。カストロはオルトドクソ(保守)党から1952年議会選挙に立候補したが、フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。その後、カストロは憲法裁判所にバティスタを告発した。しかし請願は拒絶され、カストロは裁判所を糾弾した。

武装闘争

この後カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日にオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、カストロは逮捕され裁判で懲役15年が宣告されたが、1955年5月に恩赦によって釈放され、二ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。

1956年12月、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でメキシコから多くの他の亡命者と共に秘密裏にキューバへ帰国した。それらは「7月26日運動」と呼ばれた。その時点でカストロはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にカストロはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。

「7月26日運動」の最初の行動は1956年12月2日にオリエント州で始まった。しかし激しい戦闘でオリジナルの80人のうちの12人だけが生き残りシエラ・マエストラ山地へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。カストロの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。1958年5月24日にバティスタはカストロの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。1959年の元日、カストロの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、カストロの軍はハバナを指揮下に置いた。

国家元首として

革命広場(ハバナ)にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル・カストロ
 
革命広場(ハバナ)にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル・カストロ

外交政策

1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、カストロは2月に首相に就任する。しかしながら新政府はアメリカ企業の財産を没収、国有化の政策を行い、アメリカとの関係は日増しに悪化する。カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード・ニクソンと会談する。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが伺える。同年12月、アメリカ国家安全保障会議はカストロ政権転覆を決定。シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。所謂「ピッグズ湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。

キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバと国交断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソ連との関係を深める。カストロとニキータ・フルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。

フルシチョフの回想録によると、彼は1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行する(キューバ危機)。

フルシチョフはアメリカがトルコからミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意した。緊張が緩和された後もキューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。カストロは、アメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。ただしソ連との友好関係は、キューバの重要な政策であったから、断交にまでは至らず、フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、カストロはソ連に対する不信感を解消した。しかし、このようなソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。

アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を目指してはいるものの、反カストロ派のロビイストの影響を受けているアメリカの保守派が経済制裁を解こうとせずかたくなな態度に終始している。

中南米諸国との関係

1971年には米州機構の慣例にもかかわらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。カストロはチリへの一ヶ月にもわたる訪問を行った。訪問アジェンデ大統領との大きな関係と公的な助言を与え、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。

その後1990年代初頭の冷戦終結まで、アメリカの後押しを受けた軍事独裁政権がその大勢を占めた殆どの中南米諸国と関係が悪かったものの(メキシコなど一部の国としか交流がなかった)、冷戦終結に伴う軍事独裁政権の崩壊後は、ペルーなど多くの国と国交を回復した。また、中南米諸国に対するアメリカの外交政策と、アメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌う多くの中南米の多くの国民からは、カストロのアメリカへかたくなに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内心で高い共感を得ているといわれている。

ヨーロッパ諸国・カナダとの関係

1976年、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、カストロと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。

トルドーとカストロの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から90年代にかけてキューバを数度訪れている。カストロは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。

経済政策

キューバ革命後直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、カストロを「容共的」と避けたアメリカとの関係を見限りソ連と接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と経済制裁を発動し、それに対抗するようにソ連はサトウキビと石油のバーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてキューバ支援を行った。

その関係は1991年のソ連崩壊まで続いたものの、ソ連崩壊により冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロのみならず国家全体の悩みの種となっている。

宗教政策

キューバはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するカストロは頑なな無神論者で、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を行った。ローマ教皇ヨハネ23世は1962年1月3日にカストロを破門した。これは1949年にピウス12世が発した法令によるものであったが、ローマカトリック教を以前から放棄していたカストロにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるカストロへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。

ヨハネ・パウロ2世とカストロの関係は以前の教皇との関係と比べると多少よかった。1992年にカストロはキリスト教徒に対する融和策を導入した。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるキューバへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとカストロの関係は改善する。カストロは1996年11月にはバチカンを表敬訪問しヨハネ・パウロ2世に謁見。事実上宗教弾圧政策を放棄した。1998年になるとヨハネ・パウロ2世がキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した。教皇の訪問後、キューバ政府はクリスマスを再び休日とし、宗教的行事の公然実施を認めた。

2005年4月のヨハネ・パウロ2世の死去時には、カストロはハバナ大聖堂でのミサに参列した。それは1959年に妹の結婚式に出席して以来46年ぶりのことであった。ミサを指揮した枢機卿ジャイム・オルテガはダーク・スーツを着たカストロを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ2世の死がキューバで心より悼まれた」ことに対して謝意を表した。

収容所問題

1980年3月28日、亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のキューバ人が大使館に逃げ込んだ。カストロは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者達はマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のキューバ人が出国したとされる。

マリエルから出国したキューバ人の大多数は正当な亡命希望者であったが、カストロはおよそ20,000人の犯罪者および精神障害者を出国させる機会としてこの事件を利用したとされる。

一般的なイメージとエピソ-ド

ハバナ店頭に貼られたポスター
 
ハバナ店頭に貼られたポスター

中南米諸国においては、「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「中南米を植民地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な人たちのみならず、頑固な反共産主義者の間においても心理的な支持者が多いと言われている。特にベネズエラのウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛している他、ボリビアのエボ・モラレス大統領とも友好関係にある。

国内においても、独裁者として君臨しているにもかかわらず同様な理由からカリスマ的な人気が根強くある。

また、キューバの最大の特産物で、自らの好物でもある高級葉巻を革命闘争時代から常に欠かさなかったことから、葉巻愛好家の間では象徴的な存在であった。しかし、自身の健康と、国民に禁煙の重要さを説くため、1986年に禁煙宣言を出し自ら禁煙している。

カストロは長時間の演説をすることでも有名で、数時間に及ぶスピーチも一般的だという。かつて党大会で10時間以上に及ぶ政治報告を行ったこともある。本人も自分の演説が長いことを自覚している模様で、とあるパーティでスピーチに立った際、冒頭で「大丈夫、今日は早く終わらせるから」とジョーク言い、出席者を笑わせたことがある。しかし、近年では健康状態の悪化でそうした長時間の演説をすることも少なくなっている。

弟のラウル・カストロはキューバ共産党第2書記で、カストロの後継者と考えられている。アメリカ等の報道は、現在彼がパーキンソン病に罹っていると伝えている。

カストロは一応親日家とされる(基本的には一般のキューバ国民もその様だが)。2006年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦、日本と戦う事になったキューバだが、カストロは試合前、キューバ選手団に「試合に“勝て”とは言っていない。“ベストを尽くせ”と言っている(要約)」という名言を残す。そして試合当日、キューバは善戦したが、結局は日本に敗れ、日本が優勝、キューバは準優勝という結果に終わったが、カストロはキューバ選手団を空港まで出迎え、その後に首都ハバナで開かれた政府主催の式典で「(賞品として獲得出来るメダルの色が)金でも銀でもいいじゃないか!決勝に行けた事が素晴らしいんだ!」と自国選手を称えた上で、「藤田宗一選手からホームランを打った事は、素晴らしかった(要約)」「日本人選手の名前の読み方がよく分からない。マスコミに聞いてくれ(要約)」と積極的に日本人選手について発言している。また、2003年に来日した際には、外国の要人としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷して「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残している。ちなみに、チェ・ゲバラも1959年に広島を訪れている。

共産主義に対して極めて真摯な考えを持ち、自身がフォーブス長者番付、君主・独裁者部門に9億ドルの財産を持つとして7位にランクインされたことに激怒し、「気分が悪くなる報道だ。なぜ、こんなバカバカしい記事に対して、自分を弁護しなければならないのか」「もし誰かが、私の口座が国外にあって1ドルでも預けてあると証明するなら、私は議長を辞める」と発言した。 

 

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